6・水面下








彼の変な発言には慣れていたのだが…これには流石に驚いた。
思わずその綺麗なお顔をまじまじと眺めてしまう。
「はぁ?…あんた突然何言い出すの」
それに対し本人は、いたって普通。
「夜のそのプゥルとやらに行こうではないか」
プゥルったって…完全に閉まってると思いますけど。それに…何でまた突然。
当然の疑問をぶつけると
「何だ、俺とはいけぬのか。ではもう今後一切宿題は手伝わぬぞ?」
う。それはイタイ。非常にイタイ。
「いや…嫌ってわけじゃないけど…でもあんた、プールなんか行ってどうすんの?
それに、夜中なんて絶対開放されてないよ」
開放されていたとしたら、随分無防備な学校である。
流石に其処まで間が抜けているとは思えないけれど。
「ふん、お前は神を何と心得る」
「…確かそれ、前も言ったよね。何、神様が何なの」
半ば呆れつつ言えば、本人は心外そうに肩を竦める。
「失礼な奴だ…まぁいい。神に行けぬところは無い。
それに、夜中の方が人目につかなくていい」
お前は俺が人目につくことを避けたいようだしな?
続けた彼の言うことは確かにそうなんだけど。でもどうするつもりなのだろう。
「ねぇ…行くのはいいとして、百が泳ぐの??」
何か想像つかない。彼は泳ぎよりも飛ぶ方が得意だろうし。
…ああ、何か考えてることが、人間離れしてくような気がするが…まぁいいや。
「当然だ。神に出来ないことはない。
泉とやらとは格が違うぞ。神の力を見せてやろう」
…ああ出たよ、自信家発言。別にいいんだけど、神様だし…。
結局、ただ単に「俺の泳ぎを見せてやろう」的な発想だったわけか。
でもそんなに凄いんだったら、ちょっと見たいかも。
「ふーん。じゃあ、行こっか…あ、でもなぁ…」
うちの親はそんなに厳しい方じゃないけど、流石にこれをそのまま伝えて、
真夜中に家を出るわけにも行かないし…。
大体こんな地方といえど、真夜中に外出というのはちょっと物騒だし。
それを百に伝えてみたところ、百がまた得意げにふんぞり返る。
「俺にいい考えがある。要は親に知られなければいのだろう?」
「まぁ、そうだね…でもいい考えって?」
何をしでかすのか、イマイチ予想出来ない彼のことだ。
また私のお粗末な頭では想像もつかない方法で何かするのだろう。
…ちょっと不安だ。
しかし私のそんな不安など知る由も無い
「俺に任せておけ。お前をうまく連れ出してやろう…。
兎に角、お前はいつものように部屋に居ればいい」
そうですか。じゃあ不安だけどそうします。


と、そうこうしているうちに、我が家の赤い屋根が見えてきた。
じゃあ此処で…という時になって、徐に百が空を見上げた。
何か見えるのかな??とつられて私も見上げるが…特に何の変哲も無い、綺麗な夕焼け。
神様には何か見えたりするのかな…と見回す私の隣で、百が独り言のように呟いた。
「いかんな…遅刻だ」
「どうかしたの?」
神様が遅刻ってのも変な話だ。話によると瞬間移動もどきも出来るらしいのに。
「いや。今日はある方が俺を訪ねて来るのだが…まぁいいだろう」
「ある方って…人??」
「いや、俺と同じようなモノだ」
此処でにやりと口角をあげた彼を見て、どんなモノか尋ねようとした私は…やめる。
何か、聞いたら後悔しそうな笑みだ。
「ふ、ふーん…じゃあ急いで行った方がいいんじゃない?」
必死に平静を装うが、彼にはお見通しのようだ。
「…ナニモノかとは聞かないのか」
読心術なんか無くても、その勘の良さだけで十分だと思う。
黙ったまま苦笑と共に首を横に振った私を見て、彼は一つそうかと頷いた。
「まぁ、それももっともだな。では今夜また行く」
今夜って何時くらい。
と聞こうと横を見た時には既に…隣には誰も居ない。
キレイサッパリ、何も無い。
相変わらず、消えるときはさっぱり消えてくれること。
「前触れも何もないのね…まぁいいけど」
一人にやにやしながら、私も家の玄関に立つ。
そして鍵を取り出そうとして…思い出した。とても大事なことを。

そうだ、私鍵忘れてきたんだ…!!!

ドアノブを回すが、やはり閉まっている。
とりあえず母に連絡しようと携帯を取り出し、ディスプレイを覗き込み…
…本気で焦る。

ちょっとぉ…どうしてこんな時に電池切れになるのよぉ…!!!

そう。携帯を開いた途端、充電して下さいの文字が点滅しているのだ。
これはまずい。此処で何時間か過ごさなければならなくなる。
母のお友達さんの家など行ったことがないし、本当に八方塞だ。
それでもまだ庭の方のガラス戸は空いているかも…と一縷の希望を頼りに、
急いで裏側に廻る。
そして窓ガラスを引いてみるが…やはり、閉まっている。
ああ、本当にどうしよう…?!
困り果て、その場に蹲るようにしてしゃがみ込む。
大きく溜息を着き、どうしようかと冷静になって考えようとするが…
どうしよう…本当に何も思いつかない…。
どうしてさっき百が居るときに思い出さなかったんだろうと、本気で後悔していると…
背後で草を踏む音が聞こえた。
もしかして、この現状を見てた百が来てくれたとか、
母が帰ってきたとか、もしくは父が…なんて思いながら振り返ると…。


「………どうも」

「あ………どうも」


これは流石に、想定の範囲外というやつだ。
どれでもなかった。そして、誰がこんなことを想像できるだろうか。
微妙な笑みを浮かべてこちらを見つめる、黒いスーツ姿の女性がいらっしゃるなんて。
…こんな人は、勿論私は知らない。まして近所で見たこともない。
でも何でこんな場所に、こんな人が…。
季節は真夏だというのに、その女性の長身は真っ黒なスーツに包まれている。
「…あの、うちの家族に何か…??」
とりあえず、聞いてみる。多分確率は物凄く少ないが。
父の会社の関係とか…母のお友達さんとか。
女性はやや間延びした動作で、首を傾げる。
よく見ると結構な美人さんだ。…どちらかというと、男性的な顔立ちだけど。
中性的というのだろうか。胸も…あるのかないのか、ちょっと解らないし。
「いやぁ…この近所に、用があって…鍵、ないの?」
話すテンポも随分遅い…が、そうじゃなくて。
「なっ、ど、何でそれを知ってるんですか…?!」
驚いて、思わず立ち上がってまじまじと相手を見てしまう。
対し、その女性は「ああ、いけないな…」なんて呟きながら、頭をぽりぽり掻いている。
そして
「あの…目ぇ瞑っててくれる?」
また突然である。キスでもするつもりなのだろうか。いや、んなわきゃないか。
当惑するのも当然だとその女性も理解したのか、また頭をぽりぽり。
「あー…その、助けてあげるから、信じて…キスなんてしないし」
いやいやいやいや。
こんな怪しい人の目の前で目なんか瞑ってられないよ。
それに、キスしないって…まるでどっかの誰かみたいに勘がいいこと。
「その…遠い知り合いになるから…ね」
「へ…??」
言っていることの意味も解らない。益々誰かみたいだ。
これはいよいよ怪しい…と少し身を硬くしていると、女性は益々困ったように首を傾げる。
「とにかく…大丈夫、変なことは絶対しないし…鍵、必要なんだよね…」
「は。はい…」
見た所…まぁ怪しいところは満載だが、そんな物騒な人には見えないし…。
もうどうにでもなれ!!と漸く決心して、目を瞑った。
「こ。これで大丈夫ですか…?」
視界が見えないことは、やっぱりちょっと恐い。
「うん…いいよ。手ぇ出してくれる…」
女性が近くに寄ってきた気配を感じる。
言われるままに、おずおずと両手を差し出すと…何かを落とされた。
そして
「うん…もう目ぇ開けていいよ…」
言われてぱっと目を開けると…

「………あ…あれ…??」

誰も、いないのだ。


さっきまで確かに、近くに気配を感じていたのに。
辺りを見渡した後、そういえばと手の中を見れば…

私が今朝部屋に置いたままにしておいたはずの、鈍く光る鍵。

誰も買わないような木彫りの人形のキーホルダーがついているから…まさしく私のもの。
またきょろきょろと辺りを確かめるように見渡すが、やはり誰もいない。
…こんなことが過去にも一度あったような気がするが…。
とにかく私は家に入るべく、また玄関に回りこんだ。








**********






「ふぅ…」
窓枠に頬杖を着いて、音という音に耳を澄ます。
深く息を吸い込むと、夕立の後のむっとする土のにおい。
私はこのにおいが好きだった。大体雨の後というのは、色んなにおいがする気がする。
雑多に混ざったものが一気に体内に入ってくるみたいな…
ちょっと詩人になりながら、私は鞄を抱え待っていた。
そして手には、今日あの謎の人に取ってもらった(?)らしい鍵。
何となくあの人は誰だったんだろうと思いながら、鍵を見つめる。
しかし…考えていてもわからないことだ。
この辺では目立つ格好だ、今度また会えたときにでも、
どうやったか種明かしして貰えればいいのだ。
しかし…不思議である。
母や父に聞いてみても、「この辺にそんな人はいない」と言っていたし。
兎に角、私は深く考えないようにしながら鍵を鞄に入れた。
…またいざという時に困ったら嫌だからね。

鍵をしまった後、また外を眺める。
暗くてよくは見えないものの、風が吹いて「入り口」の緑がざわざわと波打つのが、
暗がりに少しだけ捉えることが出来る。
親が部屋に来ることはあまりないが…一応寝たフリを装う為、部屋の電気は消してある。
だがこうして考えてみると…楽しみである。
夜のプールなんて、よく考えれば面白そうである。
誰も居ないうえに夜、しかも百と一緒。これが面白くないわけがあるだろうか?

鞄の中にある携帯を取り出して時計を見れば、午前1時を廻ったところ。
そろそろ来てもいいはずなんだけど…と思った途端、
ばさっという布の翻る音が聞こえた。
…真上から。

びっくりして急いで上を見上げれば、家の屋根から私を見下ろす百の姿が。
「…よし、待っていたな」
言うと、窓枠にひらりと降りてきた百が急に手を差し出した。
何を突然…と言おうとして、やめる。
何か嫌な予感を憶えて百をちらりと見上げると、
いかにも何か目論んでそうな視線とかち合った。
「…あのさ。連れ出すって言ってたけどさ…あの、此処から飛んだりとかは…」
ナシでお願いしたいんですが…と告げると、彼は益々あの得意げな笑みを深くする。
そして強引に私の手を掴むと、さっともう片方の手で私の口を塞ぐ。
ちょっと何さらすつもりじゃワレ!!と言おうとしたその瞬間、
彼が一瞬こっちに意地悪そうな一瞥を投げかけた。
そして果てなく嫌な予感に思い切り身体を引いた…はずだったのに。

身体は既に窓の外に躍り出ていた。

内臓が一気に上に上がってくるのを感じ、突然のことに悲鳴すら出せずに…

一瞬で庭に着地。

急に安定した感覚に心底ほっとすると同時に、今一体何が起きたのかと、
一気に頭がフル回転する。
彼が私を解放すると、私は疲れてもいないのにゼイゼイと肩で息をしていた。
何か。足が地面についてなかったよ。うん。やっぱ重力に逆らうのって良くない。
一瞬頭が真っ白になってしまったよ。ええホントに。
「…お前の反応はいちいち面白いな」
面白いのはあんただけだ。と言いたいのに、うまく言葉が出てこない。
ただ恨めしげな視線を送ると、
「大体、お前の家の玄関を通るわけにもいくまい。となれば、方法は一つだ。
それに、俺はお前と違って飛べるのだ。何を案ずる」
何を案ずるったって神様…多分人ってそんなにしょっちゅう飛んだりしないから、
その感覚に驚くのは当然だと思うんですが…。
「まぁ良い。行くぞ」
一人でさくさく歩き始めた百に、漸く息の整ってきた私も、急いで後を追った。





***********





夜の学校。というのはちょっと恐いイメージがあったが…。
百は神様という肩書きナシでも十分恐いものナシという感じなので、
全然恐くなかった。
…それよりも恐ろしいことといえば、

「…ねぇ百」
「何だ」
懐中電灯も何も持たず、暗闇に包まれた学校をずんずん進んでゆく彼の着物の袖を、
ちょっと引っ張る。
ん、と軽く振り返った彼に
「…あのさ、何であんたが触れるドアって…鍵かかってないの…」
そう。普通戸締りはしてある。
この学校も勿論学校というからには、一応誰かが戸締りをして帰っているはずだ。
それなのに…校門でも、どうやって入るつもりかと構えていた私の目の前で、
百はその手で校門を開けたのだ。普通に。おじゃましまーす、とでも言う感じで。
俺に任せておけだのと脅されていたからには、何かとんでもないことを
しでかすんじゃなかろうかと、色々と想像を膨らませていたわけだが。
これはこれで…おかしい。
「人間の作った小細工など、俺に通用するか」
ああ、そうですか。じゃ深くは突っ込みません。いや、突っ込めません。
そうこうしているうちに、学校の屋上…プールに着いた。
昼間のままで、綺麗に水が張ってある。
「うわぁ…何か夜のプールって、綺麗だね」
屋上だから少し風が強かったが、夏のぬるい風は丁度いい。
しんと静まり返って、勿論誰も居ない。
百はと言えば、物珍しそうにあたりを見回している。
「ふむ…そういえば竜胆、着替えぬのか」
思い出したように聞かれて、私はむふふと笑いながらシャツをめくった。
下にはばっちりキャミソール。
下着類も全て替えを用意してあるので、幾ら濡れても平気。
…一度でいいから、濡れてもいい服でプールに入ってみたかったのだ。
公共のプールではまず出来ないこと。
シャツを脱ぎ捨て、ジーンズを脱ぐ。…下は一応、短パン。
昼間と同じく髪を下ろして…これでばっちりだ。
下着で入ってみたいといえば入ってみたいけど…一応、ねぇ…相手も男だし。
近くのベンチに荷物を放り投げて、とりあえず棚にずらりと並ぶビート板を取る。
方やその様子を見ていた百は…徐に、

着物のまま、お面もつけたまんま、水の中に入っていくではないか…!!

流石に驚いて、近くに寄ってみると、沈んでいた百がざばっと水面に顔を出した。
そして
「うむ…多少薬品臭いが…まぁ水とはいいものだ」
悠々と水面を撫でるようにしながら満足げに言っているが
「い、いや、そうじゃなくて、その着物濡れちゃうよ…!!!」
色々困るっしょ!!と一人慌てながらも、私も梯子を降りてプールへ。
本人は至って平気そうな顔で居るが、濡れた着物で泳ぐなど、とんでもないことである。
ただの服でさえ重くなるのに、百のあの着物は益々重くなりそうだし。
そして百の傍まで水の抵抗を感じながらもそろそろと歩み寄ると、
彼が徐にその手を水中から出してきた。
何を…と戸惑う私に
「触ってみろ」
「え…う、うん」
何が言いたいんだ…と思いながら、そっと言われたままに百の手に触れる。

……??!!!

次に、着物に触れる。

……っ????!!!!!

「え、な、何で濡れてないの?!」

身体検査でもするようにばさばさと無遠慮に触りながら、
私は信じられない気持ちで一杯だった。よく見れば髪も濡れていないし。
驚きにわたわたしている私に、百は一度得意げに笑って
「俺は水と相性がいい。まぁ当然と言えば当然だ」
意味不明です。
そして疑問が一杯の私を残して、そのまますいすいと泳いで行ってしまう。

…とことん解らない人である。ああ、人じゃないのか…。
きっとアレだ。神様って防水加工してあるんだ。うん。そうに違いない。
自分なりに勝手な判断を下し、一つ深呼吸。
そしてはっしとビート板を掴み、昼間散々泉君に教えてもらったバタ足で、
百の居る向こう側の壁を目指す。
暗く人気の無いプールで、私が水を蹴るばちゃばちゃという音だけが響いて…
ちょっと虚しい。
ちなみに、私はまだ息継ぎが出来ないので、首の筋肉は常に引っ張られている状態。
…虚しいうえに苦しい。
更に極め付けに…私のバタ足の速度は、究極に遅い。5分に1M進めたら良い方。
そんな私の様子を見ていたのだろう、高速で向こう側の壁に着いた百が、
「遅いぞ竜胆。夜が明ける」
「うっうるさいわねー!!これで全力よ!!」
ムキになって心持ちバタ足の速度をあげる。…実際に泳ぐスピードは変わらないが。
それを暗がりでも捉えているのだろう、百はげらげら笑っている。
ちくしょうめ。そりゃ神様は泳げるからいんだろうけど。
後で見てろよ。マッキーで眉毛繋げてやる。極太だ。貴様なんて馬●殿だ。
と。お粗末なことを考えていた所為で、余計な力が入りすぎたのか、足が疲れ始める。
が、此処でくたばっていては竜胆の名に恥じる。
何としても奴のもとに…!!と無理に進もうとした瞬間、

「っ…うあ、え…?!」

足が急に鈍い痛みを訴えて、動かなくなる。…足がつったのだ。
何とか体制を立て直そうと、もう片方の足で底を探ろうとするが…それは余計に
状態を悪化させることとなった。
「きゃあっ」
底に足がついたと思った瞬間、バランスが悪かった為なのか滑ってしまう。
更に驚いた所為で掴んでいたビート板が手を離れ、支えがなくなる。
そして…よくある光景であるが、ばしゃばしゃと無意味に水面で暴れる、
溺れた人と化してしまった。
必死に水面に顔を出そうとするのだが、何が何やら既に解らない状態では、
益々沈んでしまう。暴れた所為で口に水が入り、喉が痛くなる。
からみそうに広がってうねる自分の髪が、水面の暗い蒼の中やけに鮮明に見えた。
やばい、これはやばい。本当に溺れる!
と先行きを悲観した瞬間、やけに冷静な声が直ぐ傍で聞こえた。

「…全く、何をしているのか」

ぐいっと力強い腕が腰を捉え、ざばっと水面に浮上させられる。
そして後頭部を支えられて、引き寄せられる。
何が起きたのだろうと呆然としながら見上げると、百の美しい狐顔のどアップ。
二重の驚きに声も出せずにいる私にはお構いナシに、百は頭を支えていた手を離し、
頼りなさそうに水面に漂っていたビート板を取ってくれた。

…が、現状を把握した私は、色んな意味で硬直する。
…勿論彼は溺れた私を見て、只単に海難救助(?)してくれただけなのだろう。
しかし、本日二度目になるが…この体勢が問題だ。

彼が私を腰を引き寄せ、正面から向き合っている状態…
これってつまり…

(抱き合ってるのと同じじゃないの…?!!)

さっきは無遠慮に触ったはずの、上等な着物の感触と、その布越しにも解る、
彼の体の感触とか…。
照れる場面ではないということは解っているのに、先程の恐怖もすっかり忘れ、
違う意味でのドキドキは激しくなる一方だ。
そういったものをごちゃごちゃ感じながら、私は引き寄せられたままの状態で
目の前にある、百の首飾りを呆然と眺める。
恥ずかしさと焦りで、うまく頭が機能してくれない。
それに…きっと今の私は真っ赤な顔をしているだろう。辺りが暗くて本当に良かった。

…が、彼は全く気にも留めていないようで、淡々と私にビート板を持たせる。
「全く…溺れる奴があるか。力を入れすぎだ」
私が何も言わないのを落ち着いたととったのか、彼もふぅと一息つく。
「どうせ足がつったのだろう?大丈夫か」
そういえば、と今までのことですっかり忘れていたが…気付けば治っている。
ぎこちなく、目をあわせられないまま頷けば、彼はそうかと呟く。
けれど、いつもより近くで聞こえる低い声に、益々私は硬直してしまう。
…何と言っても、顔や声だけは人間離れして美しいのだ。
今までにもオヒメサマダッコされたり手を繋いだり…というようなことはしてきたが、
あの場合はちょっと違うような気もするし…。

何というか…実に悔しいところだが今回は純粋に、とても格好良く見えてしまった。

とにかく、この体勢は何とかならないだろうか。
この心臓の音が聞こえたりなんかしたら絶対からかわれるし、
今はその受け答えも普通に出来そうにない。
一人悶々としている私のことなど知る由もなく、百は私の体勢が安定したのを
確かめると、あっさり開放してくれた。
…確かに開放して欲しかったんだけど。
少しほっとしたのと、急激に百の気配が遠ざかるのを感じて、少し寂しくなる。
そして、やれやれとばかりに彼が溜息を着く。
「お前ほど忙しい奴もいないだろうな」
恥ずかしさも手伝って、私は彼の目を見れないままに、半ば叫ぶように言ってしまう。
「っしょうがないでしょ!!泳げないんだから!」
「威張ることではないぞ。まぁ俺が居たからいいとして…」
嗚呼自信家。こんなに腹が立つのは何故だろう。
当然と言えば当然なのだが、ごちゃごちゃしているのは私一人なのだ。
「もう、百がからかうからじゃない…!」
こんな八つ当たりまでしてしまって。
本当はちゃんと有難うと伝えなければならないはずなのに。
何だか頭が混乱してくる。
何か、嫌だよ。こんなの意識するのって。
だって彼は単純に友達なのに。何か今の私って可愛くない。
振り切るようにバタ足を再開させて、彼を置いて向こう側を目指す。
けれど哀しいかな、私ごときのバタ足じゃそんなに早くは進めない。
まるで今の気持ちのように停滞しているから、益々ムキになる。
そうして悶々と突っ走る私の横に、直ぐ追いついてきた百が
気付けば並んですいすいと泳いでいる。
…どうやら彼なりの気遣いなのか、今度は私の進む速度にあわせてくれているようだ。
そしてちらりとこちらに視線を投げかけ

「…怒ったのか、竜胆」

そういうわけじゃない。そうじゃなくて。
もどかしい気持ちのまま彼を盗み見れば、いつになく真剣な顔をした彼の顔。
彼が最近私の前でこんな表情をするのは珍しい。
対し私はといえば、照れ隠しのように、ちょっとは…なんて、益々可愛くない返事。
「すまない。お前を見ていると、ついからかいたくなる」
これには、本当に驚いた。彼が私にこうして謝るなんて。
今度はちゃんと百の方へと首を向ければ、やっぱり真剣な瞳。
引き込まれそうになる、夜の中でも一層真っ黒の瞳。
その真剣さに少したじろぎつつも、私はぎこちなく一つ頷いた。
「…いいよ、別に…その、有難う…助けてくれて…」
やっと言えたけれど、酷く滑稽な響きだ。
まるで自信がなさそうで、もごもごと消えそうな「有難う」。
「まぁ元は俺なのだ、礼を言われる筋もないがな」
彼はいつもどおり、あの得意げな笑みを取り戻してこちらを見ている。
まぁそうなんだけど。実際またそう堂々と言われると、ちょっとむかつく。
天邪鬼の私が悪いとかは、この際棚にあげまして。
「そーよね。じゃせめてもの気持ちってことで、
後でお供えモノしてあげる。きな粉とか」
自棄になって言えば、隣で百が溜息をつく。
「…お前はそんな実用性の無いものをどうせよと言うのだ。それは半ば嫌がらせだ」
神にだって選ぶ権威くらいある。寧ろ神は選ぶ権利の塊だ。
なんて豪語するもんだから、つい可笑しくなって笑ってしまう。
そんな図々しくて自己中心的な発言が、いかにも彼らしくて。
「何を笑うか」
本人は至って普通に言ったつもりらしく、いかにも疑問だらけ、という表情だ。
笑いをこらえつつ、参考までに聞いておく。
「じゃあ百は何お供えして欲しいわけよ」
「…欲しいものか。そんなことを聞かれたのは初めてだな」
軽い感覚で聞いたのに、本人は真剣に悩み始めた。
何を言い出すのだろうと、にわかに期待しつつ待っていると…
その頃には漸く私のバタ足でも、向こう側の壁に手が届く位置まで来ていた。
片方の手を目一杯伸ばして、タッチ。
「よし!!やっと着いた」
ぺた、と手を着いて、壁に寄りかかる。
妙に疲れてしまったのは、必要以上にムキになってしまった所為だろうか。
私に少し遅れて、百も壁に手を着く。
そして…彼はまだ思案顔である。
「…そんな真剣に考えなくてもいんじゃないの?」
仮にも神様なんだし、と控えめに提案してはみるものの、
相変わらず彼は考え込んだままだ。
視線が前方を見据えたまま、心此処に在らずといった風で。
きっと今私が言った言葉もろくに届いていないに違いない。
仕方が無い。好きなだけ考えてりゃいいさ。
小さく息を吐き、彼を置いて梯子からプールサイドへと上がる。
夜風が水気を含んだ身体には少し冷たかったが…まだ寒くは無い。
ベンチに置いたタオルで髪の水気を軽くふき取り、吹き抜けになっている空を見上げる。

この辺はあまり街灯が無い。
そして夜になると本当に真っ暗で、何も見えなくなってしまう。
だからなのだろう、空には星が煌々と煌いていた。
恐らく地上では、今にも昼間に熱せられたアスファルトが、
眠るが如く熱気を穏やかに放射して、人々の寝苦しさを誘っているのだろう。
けれど此処は地上から離れたプールで、時折思い出したようにそれが薫るだけだ。
それを頭の片隅で感じながら、ふと思い出す。

さっきの…あの、百に助けてもらったときのことを。

あのことを思い出すと、動悸の速さまでが戻ってくるようだ。
濡れたキャミソール越しに、そっと胸に触れる。
落ち着け。落ち着け…百はただ、助けてくれただけ。変に意識してる方が変なんだ。
だってほら言うじゃない。馬鹿って言った方が馬鹿だって。
いやそういう問題じゃないか…というより、私の尺度は小学生並だったのか。
…けれど、あの時の百は本当に、格好良く見えた。
思い浮かべて、気付けば微笑む私の横に…

「気色悪い娘だ。何を考えている。」

百様ご本人の登場です。
気付かなかった私も私だが…あんなことを考えていた所為か、
必要以上にドキリとしてしまう。
「っ…あんた、いつから居たの」
平静を装うものの、一瞬肩がびくついたのは、ばっちり見られていただろう。
「さっきから居たぞ。何を怯えるか…」
やってられんな。なんて呟きながら、彼も私の隣に腰掛ける。
まさかばっちり百様のこと考えておりましたなんて言えないから、
咄嗟に浮かんできたことを口からでまかせに言ってしまう。
「いや…今日の泉君、可愛かったなぁって。
それよりあんた、もういいの?」
そう。さっきプールに居たときには、何かしきりに考え込んでいたようだが。
「あぁ、もう良い。解ったからな…それよりも、泉とやらか…」
「…?何よ」
泉君が、どうかしたのだろうか。
そういえば彼と泉君も微妙な面識があったような気もするが…。
「お前、泉薫が好きか」
無表情に問われて、私は首を傾げる。
確かに好きだけど、どうして突然そんなこと聞くかね。この人。
「まぁ…?好き、かなぁ…学校での友達ってこっち来て初めてだし」
あんな性格も仕草も顔も可愛い萌えキャラも、何を思ったのか私を好いてくれている
ようだし。何かちょっと得した気分よね。
「そうか。お前はそう思うのか」
神様、ちょっと得意そう。が、何が言いたいのかはさっぱり解りません。
いぶかしむように見つめても、彼は少し考え込むような仕草をしながら、
にやりと口角をあげて…何だか自己満足しているようだけど。
「私と泉君が何よ?」
「いや、いい。ただ…奴も哀れな人間だ」
ああ。何か悪そうな顔してるけど、本当にこいつ神様なんだろうか。
…別に彼に肩入れするわけじゃないけど、けど、ね。
今日あんなによくしてくれたし、優しいし。
私としては、そういう場面じゃないのかもしれないが、複雑な気分になる。
「あのねぇ…あんたから見りゃそうかもしれないけど、泉君は純粋にいい人だよ。
何でそういうこと言うの」
多少非難がましい口調で問えば、得意げな笑みがすっと消えた。
こういう仕草は…やっぱりちょっと神様なんだと思う。
そして次に出てくる表情は、瞳孔の鋭くなった猫のような、感情の見えない、
けれど少し恐い瞳だった。
「…泉をそのように思うお前こそ、俺には理解できぬな。
お前は奴の何を知っているつもりでいるのだ」
ああ。そっか。と妙に納得。
彼はきっと泉君の心が視得るから、こういうことを言う。
確かに、変な話だが…泉君が何を考えてるかなんて、百ほどに私はわからない。
突然凍り始めた空気に少したじろぐが、次の瞬間には彼が溜息を吐いて、
優雅に足を組む。
「…まぁ。奴が望むものと、俺が望むものは、違うようで実に似ていた」
俺かて所詮は神でしかないというに。
わけのわからないことを言いながら、今度は少し沈んでいるようである。
とことん解らない神様である。感情というものに脈絡が無い。
…勿論、彼の中じゃあるんだろうけどね。

それよりも、欲しいものって。
そういえば、さっきもそんな話をしてたけど。神様って何を欲しがるんだろう。
百は何が欲しいと思うんだろう。ちょっと気になった。
「望むものって…百は何が欲しいの?」
問えば、ふんと鼻で笑われる。
「誰が教えてやるものか」
あ。意地悪だね。そう来たか。まぁいいけどさ。
何か拗ねてるみたいに見えるけど…まぁ神様が拗ねるなんて、おかしな話しだし。
少し暗くなった空気を換えるように…そして好奇心も手伝って、聞いてみる。
百の望むものと泉君の望むものが似てる、ていうのも不思議だし。
だって、二人には全く共通点が見つからない。
大体泉君の欲しいものも、百の欲しいものも、全く想像がつかない。
「ふーん…何か変なものなの?」
「そうだな…まぁ、変かもしれぬが、神に於いて変という概念もおかしいな」
またまたよく解らないことをぬかしてやがりますよ。
まぁいいや。その内教えてもらおう。
…もし誕生日とかあったら、何かあげたりしたいし。

そして、急にふと思い出す。
「そういえば…今日人と会うって言ってたけど、もう終わったの?」
「…ん?ああ、奴か。もう会った」
ならいいんだけど…この神様なら約束とか平気ですっぽかしてそうで恐い。
でも、それは私の思い過ごしだったようで…一応彼も常識ってもんがあったのね。
「まだ話は終わっていないが、面倒だから抜け出してきたが…まぁいいだろう。
奴は俺と違って暇だからな」
前言撤回。やっぱこいつは人格破綻者みたいです。
どんなものと会ったのかは知らないが…神様がそんなルーズでいいんだろうか。
「…その人も可哀想にね」
きっと今頃、その人も困っているだろうに…。
ちょっとかわいそうになって呟けば、彼が横で肩を竦めて見せる。
「何を言うか。俺には俺の優先順位というものがあるのだ。
それは例え同属でも侵害させぬ」
「…優先順位、ねぇ…」
大して興味のなさそうな声で呟き、膝に頬杖をつく。

そこまで優先したいことが……ん?

もしかして…思い込みかもしれないけど、優先順位の最優先って…



もしかして、私と一緒に居ることだったり、するのかな。


ちょっとどきっとして百を見上げれば、いかにもからかっていそうな、
例のいやらしい顔の、神様。

「奴と退屈な話をするより、お前の忙しい動きを見ているほうが楽しい。
お前は実に…何と言おうか、要領を得ないうえに、短絡的だ。単純というか…」

…ああ。そういうこってすか。要は人のこと馬鹿って言いたいわけか?
一瞬何かに期待した私が馬鹿でしたよ。
「…悪かったわね、単純で。あんたが変なだけだと思うけど」
はぁ、と照れ隠しに溜息を吐いてみるが、どうにもぬぐえない。
だって、一瞬…本当に期待しちゃったじゃない。
一緒に遊んでくれることとか、会うことが優先順位の一番なんじゃないか…なんて。

約束をすっぽかしてまで、私のアホな姿が見たいだけだったなんて…!!

何て奴だ。私は神様の娯楽じゃない。
一瞬だったけど、決してそんな乙女な感情じゃないけど、全然そんなんじゃないけど…
私のトキメキを返せバカヤロー。
恨めしげに見上げた百の瞳は綺麗に弧を描いていて、
それがまた綺麗で、そう思った自分と、そういう百がちょっと悔しかった。








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