10・お客様








その日は、泉君が尋ねてくる予定になっていた。
朝から起きると同時に掃除を始め、結構散らかっていた部屋を鬼のような勢いで片付ける。
BGMに大好きなバンドの曲をかけて、部屋の匂いを一掃するため、お気に入りのお香を焚いて。
窓の外へと細い筋になった煙が逃げてゆくのを見ながら、机の上に乱雑していた紙をまとめる。
はたきは掛け終わったし、掃除機も終わり。洗濯物もしまったし、机の上は片付いてるし…。
「うん…こんなもんでしょう!」
我ながら、なかなか綺麗だ。
そういえば、百が来るときはいつも突然で、掃除なんてロクにしていなかった。
いつもいつも突然ひょいとやってきて、何をするでもなく帰ってゆく神様。
…でも、今度来るときには、こうやってお掃除して待ってよっかな。
やっぱ気持ちいい方がいいもんね。

一息ついて、ベッドに腰掛けて部屋を見回す。
音楽を止めて、ぱちんとリモコンで電源を消した。
時計を見れば、そろそろ一時を廻るところだ。そろそろ来るはずになっているが…。
と、丁度その時、玄関の呼び鈴が鳴った。恐らく泉君だろう。
人が家に来てくれるというのは、いつになっても嬉しい。
私は嬉々としてベッドから立ち上がり、急いで玄関へと駆け出す。
「はーい」
慌ててたどり着いた玄関で、鍵を外してドアを開けた。
すると其処には…

「いらっしゃ…って、え…?!」

少しぎこちない笑顔の泉君と、機嫌のよさそうな百が仲良く並んで立っているではないか。




********




それは、少し前の出来事であった。
泉は竜胆の自宅へと急いでいた。

あの竜胆からのお誘いということで、急ぐ足を止めるのが困難な程に浮かれているのが、
自分でもよく解った。
そしてふと立ち止まり…辺りに人がいないのをちょっと確認した後、
今日の自分の格好を少し見下ろす。
一応人間の流行というものは勉強しているし、竜胆がそれで素敵だと思ってくれるなら、
そういう格好をするのも楽しくなる。
以前からこういう人間らしい生活を送るのも悪くないとは思っていたが、
所詮は人間の考えるモノ、其処までの快楽は感じ得なかったし、それでいいとしていた。
けれど今は、実に色々なものを楽しく感じている。
「…大丈夫」
言い聞かせるように呟き、また歩を再開させる。

きっと彼女も今頃、自分がたどり着くのを今かと待ち構えていることだろう。
行ったら何をしよう。彼女とは一緒に居るだけで楽しかった。
考えるだけで気分が浮かれてくる。
けれど、少し気がかりなことが一つあった。

それは…彼女に纏わりつく、あの百というモノだ。
既に彼のことは随分前から知っていた。いや、感じていたというべきか。
この辺を治めているモノが居るということは、随分前に知っていた。
しかし永い間、何処かで眠っていると聞いていたが…。
何時の間に目覚めたのか。
そして…何故彼女にあそこまで肩入れするのか。理解しかねる。
自分よりもずっと格が上なのだということも解っているし、
いざとなれば自分を消すことなど他愛ない存在だ。
自分の目から見た『百神』は非常に危険と言えよう。
竜胆の気持ちは、知っているようで、解らない。
恐らくあの百神ならば読心術も完璧なのだろうが、未だ自分は経験が浅い。
それは人間界に於いても、そういうモノ達の意味でも。
だから完璧には、読めていない。
節々で彼女が強く思うことは理解していても、隠された感情までは読み取れない。
だが実際に人間の読心術が出来る神はそうそう居るものではない。
神の意識が常に、この世界と繫がっていなければならないからだ。
それは非常な力を必要とする。並大抵の力では、到底成しえないことだ。
彼が恐ろしくないといえば嘘になる。
けれど、教室で見かけた彼女の、あの横顔がどうしても忘れられなかった。
ただ、それだけだ。
その横顔が、欲しいと思った。
それだけの話。
この何万年の存在の中で唯一あの横顔が欲しいと、初めて思っただけ。

憂いを秘めた表情で、未だ若い魂が物憂げに何かを懐かしがっているのが解った。
きっと此処に来る以前の学校のことや、友人のことなのだろう。
人間など全て同じ、愚かな生き物だというのに。
無意識の無常の喜びと引き換えにその知性を手にした、愚かで可愛い猿の末路。
それを求めて、あんなに綺麗な憂いが生まれるだなんて、信じていなかった。
今まで人間など、それこそ掃いて捨てる程見てきた。
けれども、何がそうさせるのだろう。彼女はとても、自然で、面白くて、楽しい。
それが至上の美しさなんだと言っても、きっと彼女は、いや人間は理解すまいが。
学生生活というのも、それなりに面白いものだ。
しかしどうだろう、彼女に告白して、付き合うという形態になれたならば。
欲しいと思ったあの横顔が、自分のものに出来たなら。
…どうなのだろう。彼女の魂を、永遠に手元において置けたなら。
綺麗な綺麗な、未だ穢れ無き魂。望む形。その全てを。

人間ならば、それを恋と呼ぶだろうか。
呼べ得るだろうか。

問いかけるように掌を見つめた。来るべきものが近寄ってきた気配を感じながら。

「呼べぬさ。それは支配欲というものだ、未熟者よ」

振り返ると、黒髪を風に流されるままにしている、百神。
浮かぶ表情は、慈しみと、軽蔑。

「それはお前も同じだ。違うか」

「まぁ、そうかもしれぬな」

はっと吐き捨てるように嘲りながら、冷酷な彼はくっと喉で嗤う。
けれどもその瞳には、限りない優しさをたたえながら。

「…お前は佐野さんに何をしたいんだ」

ひゅうっと風が吹きぬけた。
百の髪が益々舞い上がって、その白い肌を陽に晒す。

「俺か?俺はな…」

ごうごうと風が強くなる中、百が呟いた。



「…このままでいいのさ」





**********









とりあえず二人を部屋に通して、お茶を出す。
けれど…けれども…
「…変な組み合わせ」
思わず口に出して呟くと、百が堂々とベッドに座って私と泉君を見下ろしながら、
くっと喉で笑う。
「仕方なかろう。こやつがどうしても着いて来いと言うのだからな」
あーもー。とでも言う風に肩を竦める百を見て、泉君がきっと百を睨む。
「っ!そんなこと言ってな…!!」
ムキになって泉君が百を睨みつけるが、百はいつのもように飄々としている。
そして、少し静かな口調で言い放つ。
「…言っていないのか?」
「…っ…?」
おや。と思う。
泉君が唇をかみ締めて、ぎらぎらした瞳で百を睨む。
こんな表情初めて見たし…何か、ちょっと空気が重いような。
「…本当にそうか?」
更に一瞬だけ百が、畳み掛けるみたいに泉君に変な視線を送る。
まるで、軽蔑してるみたいに目を細めて。
…こんな百も初めて見た気がする…何なんだ、この二人は。
人の部屋に入ってくるなり、二人とも変な空気纏ってたけど…
もしかして、こいつらって白虎と青龍?
いや、ハブとマングース?犬と猿?
そんな私の妄想を他所に、泉君は言葉に詰まったみたいに俯く。
「…ちょっと、二人して何してんの。私も混ぜてよ」
仲間外れは嫌だー。
おずおずと私が呟けば、泉君が少しだけ青ざめた顔で笑いかけてくれる。
「ううん。何でもないんだよ」
いや、明らかに何かありそうだよね。いいけどさ。
それにしても
「…大体さ、どうして百が居るの」
「何だ、折角出向いてやったというのに」
偉そうにふんぞり返ってるけど、私の淡いピンクのベッドの上じゃ、
その迫力も3割減っすよ、師匠。
「いや、別にヤなわけじゃないよ?けど、何でついてきたのって」
「だからこやつがなぁ、どうしても俺についてきて欲しいと言ってきかなかったのだ」
どうやら事態は堂々巡りするらしい。
仕方なく諦めて、一つ溜息。
「まぁいいけど…それにしても百、あんたいつもいつも乙女のベッド占領するの好きねぇ」
呆れながら言えば、徐に百が難しい顔をする。
「乙女だあ?……仕方ない、言うだけタダだしな。まぁ許してやる」
「…何よソレ。私もれっきとした乙女じゃない」
全く、何てヤツだ。また溜息を吐きそうになる私に、些か慌てた様子の泉君。
「え、ちょっと待って!いつもってことは…前にもあったの?!」
何をそんなに慌てるのやら。可愛い顔に汗が滲んでるように見えるのは気のせいかね。
「んー?うん。そうだよ。この前来たときもベッド占領してんの。信じられないよねー」
のんびり言った私の言葉に、泉君が突然「うそ〜〜〜っ」とわしゃわしゃと髪をかき回す。
どったのよ。と驚く私の台詞より早く、百が横から口を開く。
「そうだ。この前は楽しかったなぁ竜胆よ。夜更けまで語り合ってなぁ」
わざとらしいが、まぁ事実である。
…語ってた内容はともかく。
曖昧に頷く私の横で、泉君がまたまた「ええ〜〜〜っ?!」と奇声をあげる。
いよいよどうしたんだ、と身構える私に、泉君はぐるんと振り返る。
「本当なの、それ!!??」
「え、いや、うん、そうだね…」
ごーん、と泉君が凹む。一体何が起こっているのか。いまいち着いて行けない私を他所に、
「二人で一つのベッドで…それはそれは有意義な時間であったぞ?」
いや、流石にそれはちょっと誤解招くんじゃないの…と言いかけた私の言葉を遮り、
尚も

「そうだ、しまいには竜胆の膝枕を体験したな」

と、そこで突然泉君が立ち上がった。
そして百にびしっと指を突きつける。何だか物凄い剣幕だ。
そして


「お前は黙れ!!もう佐野さんに近づくな!!!」


…へ?


一瞬私の中の空気が停止した。


ぴーーーーんぽーーーーん…


「あ、ゴメン、誰か来たみたい。出てくるから、ちょっと待ってて」

逃げるように席を立ち、部屋を出てゆく。
ちらっと見た泉君は、私に何かを訴えるように必死な視線を送る。
そして百はといえば…どこかをぼんやり見ながら、少し微笑んでいるようだった。
そして
「竜胆、俺は此処に居ると言って構わぬぞ」
「…何のことよ?」
首を傾げる私に、百が行けば解ると言う。
これで集金とかだったらどうすんだろ。
集金のおじさんに「百っていう人が此処に居るんですよー」とか言えってことなのかな?
…訳がわからん。



兎に角急いで玄関まで行って、ドアを開けた。
するとどうだろう、私は本日何度も驚いていたが、一番の驚きがあった。

「…すんません、突然…あの、百、居る?」

立っていたのは黒のスーツ姿の女性。やたらとゆっくり話す、綺麗な女性。
それは確かに見覚えがあった。

「あなたは…あの時の、鍵の…!!!」

そう。鍵を無くした私が家の前で立ち往生していたとき、
どういう手段かは知らないが、鍵を取ってきてくれた、あの女性だった。
あの時はその後色々あったから、すっかり頭から追いやられて居たが…。

…そうか。と、私の鈍い勘が、ちょっと働く。
きっとこの女性、百と同業者(?)の方なんだ。
そうすれば、あの現象の説明もつく。

「ええ、居ますよ。どうぞあがって下さい」

散らかってますが、と招き入れれば、女性は柔和な笑みを浮かべて、
すんません、とちょっと頭を下げた。




部屋に入ると、相変わらず異様な空気が漂っていた。
泉君は既にもとの位置にちゃんと座っていたが、百のことを睨んでいるし。
百は百で相変わらずベッドの上でふんぞり返っているし。
…何なんだこいつら。確かに来た時からおかしかったけど。
とりあえず
「百ー。お客様だよ」
私の部屋に女性を通すと、百は一つ頷いた。
そして…何故か泉君は、かなり驚いたように、半ばのけぞっている。
「なっ…どうして真貴さんが?!いつ戻られたのですか?!」
驚きに半ば叫ぶようにした言った泉君に、その真貴さんというのだろうか。
女性は穏やかに微笑を返しながら、相変わらずぼんやり返事をする。
「おー。薫じゃんかー…元気にしてたのかい、あんたは」
おや。知り合いかね。ふーん。私だけ仲間はずれ…。
って、そうじゃなく……あれ?

…いや、ちょっと待て。
……ってことは。ちょっと待てよ。

…何か…嫌な予感がする…。

いや、嫌ってわけじゃないんだけど…。

凄い予感がする…。

私が一人何かに気付きかけている傍ら、女性はすっかり泉君と同じように座り込む。
「百ー。約束は守ろうよ…待ってたんだからね」
咎めるように言う女性に、百はふんと鼻で笑う。
「お前の都合など知ったことか。俺は俺のやりたいようにやるさ」
「あんたは…昔から勝手だよ…」
ぼそぼそと言い返す真貴さんに、百はそうだったか、なんて言ってちょっと笑う。
何だか凄く親しげである。それに…昔からってことは、永い付き合いをしてるってことで…。
「もうあの件は片付いたはずだろう?何故未だにこんな場所に居るのだ」
あの件、て何だろ。神様にもちゃんとお仕事があるのね。
そういえば、百がそういう話をしてくれたことって、無かったよね。
…人間には話しちゃいいけない内容なのかもしれないけど。
…百。ねぇ百。
ちょっと俯く。
「うん…それがね、そろそろ私も見切りを付ける時が来たわけさ…」
哀しげに呟いた真貴さんに、百が難しい表情をする。
「そうか。では暫く休めるように手配しておこう」
俄かに優しそうに呟いた百に対し、女性はちょっと困ったように笑って、少し頭を下げる。
「…うん、有難う」
…何でだろう。どうしてこんなに、変な気分になるんだろう。
どうして、百が真貴さんと話すのが、堪らなく嫌なんだろう。
真貴さんは凄くいい人だし、面白そうで、綺麗で。
私じゃ敵わないくらい、とても綺麗で。
それに、百の全く違う一面を見た所為だろうか、急に百が遠くなったように感じてしまう。
「百…あんた、相変わらずこういうときは頼りになるね…ほんと、感謝してるよ」
「何を言うか、これも義務の内」
気にするな、と言って微笑む百の表情が、凄く柔らかい。
…私にこんな表情を見せてくれたことって、あったっけ?
…百はどんな言葉をかけてくれたっけ?

……私は百の、何だっけ?

途端に堪らなくなって、私は立ち上がった。三者の目が一斉に私に向いた。
何か言わなくては、と、咄嗟に思いついたことを口走る。
「あの、真貴さんのお茶入れてくるから、ちょっと待ってて」
何でこういうときの嘘って綺麗に出てくるんだろう。
なるべく不自然にならないようにちょっと笑いかけて、部屋を出た。
その時
「佐野さん、俺も行くよ。それに百と真貴さんはゆっくりしてなよ。
俺達はちょっと散歩してこよ、ね?」
腕を引っ張られて、それ以上何も言わせない勢いで泉君が部屋を出る。
百と真貴さんは互いに何か言いたそうな顔をしていたが、それに気付いているのかいないのか、
泉君がばたんと強引にドアを閉めた。
そして…戸惑う私に、ちょっとした秘密でも囁やくみたいに言う。
「…仕事の話なんか聞いてても面白くないよね」
だから逃げ出しちゃおうよ。と言う泉君の言葉が、とても有難くって、
私は一つ頷いた。



外に出て、新鮮な空気を一杯に吸い込む。
夕方の森は少し強い風を受けて、ざわざわとざわめいていた。
私の髪も心も揺らし、紅い光は肌をぼんやりと同じ色に染める。
庭に出てきた私達は、二階の私の部屋を仰ぎ見る。
きっと今でも親しげに二人は話しているのだろう。
嗚呼。空気はやたらと美味しく感じるのに。
「はぁ…」
知らず、一つ息を吐く。
あの部屋に、戻りたくないなぁ。だって戻ったら…
「佐野さん、大丈夫?」
どうかしたの?と首を傾げる仕草は、相変わらず可愛いそれで。
泉君は優しい眼差しで、私の気分を慰めてくれる。
私より、きっと私のことを理解してくれているんじゃないかと、そう思わせる表情だ。
あんなタイミングで連れ出してくれたのは、凄く有難かった。
それにしても。
何だか、ちょっと重い物を背負ったような、そんな気分である。
…もしかして私は。
今までずっと目をそらしてきた、その事実に向き合うべきなのかもしれない。

私が、百のことを好きかもしれないってことに。

今までだって、気付こうとしなかっただけで。
本当は。
…本当は…?

緩慢に頷いて、ちょっと笑う。…大丈夫、かもしれない。まだ。
だって、そうじゃないかもしれない。
只単に、私が百を友達として大好きで、その友達を取られそうだから、妬いてるだけかもしれないし。
私の顔を覗き込んでいた泉君は、不意にくるりと踵を返し、
庭の隅にある花壇へと徐に歩を進める。
「…あの二人、親しいんだね」
昔からの付き合いだって言ってたし。
静かに話し出す泉君の後姿をぼんやり見ながら、少しまた俯いた。
「…そうみたいだね」
「俺もね、実は真貴さんとは知り合いなんだ」
泉君の動きが止まり、ちらりと肩越しに振り返った。
そして、いつもと少し違う空気の彼が、少し笑う。ちょっと自虐的に。
何となく、その理由は解っているよ。
「…うん」
頷くことしか出来ずに居ると、泉君が私にちゃんと向き直った。
「…もう、解っちゃった?」
怯えているような泉君に、私はちょっと首を傾げて見せた。
解ってしまったような気がした。
泉君が真貴さんと知り合いの時点で…いや、まだ解らないけれど。
でも、そうなのかもしれないと思った。
けど、泉君は隠しておきたいみたいだから。
「…何のこと?」
些か安心したように、けれど少し残念そうに、泉君がその綺麗な顔で苦笑する。
「…はは、そうだね。俺、何のこと言ってるんだろ?」
訳わかんないね。
呟いて、泉君はまた後姿を見せる。
張り詰めた空気がちょっと緩んで、知らず堅くなっていた肩の力を少し弱めた。
「…有難うね、泉君。部屋から連れ出してくれて」
あのままだったら、きっと耐えられなかったよ。
急に意識せざるを得なくなった気持ちにも、その感情にも。
言えば、泉君が花壇の前にしゃがみこんだ。
「あのね…あれは、佐野さんのためにやったことじゃないんだよ。だから気にしないで」
ぼそぼそと聞こえにくい声で話す泉君に近寄り、同じようにしゃがみこむ。
今は何故か…ちゃんと話を聞かなきゃいけないような気がしたから。
「…そうなの?」
横顔を覗き込めば、微かに微笑む泉君の綺麗な顔。
夕方の風に揺られる、深い黒の瞳が妙に印象的だった。
「うん。俺はね、佐野さんと二人きりになりたかっただけなんだよ。
それに、仕事の話なんか本当に聞きたくないしね」
言って、いつものようににこりと微笑む。
そして徐に立ち上がって、うーん、と少し伸びをする。
つられて私も立ち上がり、何かが違うと、泉君に違和感を覚える。
「どうしても、今日言わなきゃいけないことがあったからね」
ちょっと予定が狂っちゃったんだけどねぇ。
と、困ったように言いながら、私をじっと見下ろす。
その瞳も、いつもと違うように見えるのは何故だろう。
「言いたいこと?」
こんな風になる泉君は、一体何を言うつもりなんだろう。
そして、彼の瞳がふっと笑うのをやめた。
強かった風が弱くなって、泉君の声だけがはっきり聞こえた。


「ねぇ…俺は、一つの存在として言うけど、佐野さんが凄く欲しいんだ」


つまり、付き合って欲しいってことに、なるんだろうね。

満足げだが、少し哀しげに見える表情の泉君。
信じられない思いで、大きく目を見開いた。
だって、突然すぎて。世間話の延長みたいに言っているけど、きっとこれって告白という
ものなんだろうし…。
でも、泉君は友達で。
可愛くて可愛くてしょうがない、女の私が萌えちゃう男の子で。
付き合いはまだ浅いけど、結構遊んでくれたり。
そんな人で。

「…あ、その…」

何を言っていいか解らず、目を逸らす。
夕焼けの赤がやたら紅くて、ちょっと恐くなる。

「知っているよ、佐野さんが百を好きなのはね。でも、ね」

言いながら、泉君が私の方へと一歩踏み出す。
私はその場に見えない糸で縛られたみたいに、ぼうっと立っているだけで。
泉君の差し出す腕をぼんやり眺めていて。
ああ、私の気持ちを解ってたんだ、なんて、場違いなことを考えてる。
言葉にして言われると、いよいよどうしようもない。
重くて、苦しい。何故かは解らない。

「…でも…俺は、堪らなく君が、欲しいんだよ」

初めて感じる強い異性の力に、私の中の何処かで、何かが崩れた気がした。
泉君の抱擁は何だか優しいけど、酷く必死で獰猛だった。
いつも聞いていた優しげで可愛い声が、今は間近で聞こえる。
抗うことすら忘れて、私はただずっと、花壇で枯れてしまった花を見下ろしている。

「ねぇ佐野さん、君が欲しいよ…」

ぎゅっと力が強まって、何故か私は泣きたくなった。
何でだろう。何も哀しいことなんて無いのに。
泉君の声がくぐもっているのは、私の肩口に縋るように、彼が額を押し当てているから。
そして顔をあげた泉君が、放心状態の私を酷く間近で見下ろした。

「ねぇ、何か言ってよ、佐野さん。そうじゃないと、ダメになっちゃうよ…」

ねぇ、と身体を揺すぶられて、ぼやける視界で泉君の姿を映した。
そうして近づいてきた泉君をぼんやり捉えた後、視界が一瞬真っ暗になって、
奇妙な体温を唇に感じた。
しっとりと濡れた感触を残して離れていったのが泉君の唇だと気付いたのは、
頬に一筋涙が零れた後のことだった。





**********



さく、さく、という土を踏む音さえも、少し重く響く。
疲れて、息があがる。足も限界に近い。
けれど、立ち止まる気にはなれないのだ。
立ち止まったら、誰かが…追いついてきそうで。
恐いのかもしれない。
恐い…?
一体何が、恐いというのだろう。
誰も追いかけては来ないだろう。随分と奥まで来てしまっただろうから。
濡れた頬を腕で拭って、暗い緑を掻き分ける。
ずっと泣きながら歩いていたから、顔はもうぐしゃぐしゃになっているのだろう。
空は夕暮れから夜へと変わり始めて、揺れる視界を暗く重くしてゆく。
ふと、足元の蔦に足が絡まり、ぼうっとしていたためか、そのまま転びそうになる。
「きゃっ…」
一瞬で視界が大きく揺らいで、強く目を瞑った。

…けれど。

いくら待っても衝撃は来ない。

恐る恐る目を開ければ、強い腕が身体を支えてくれていた。
そして。

「危ないよ…そもそも、女の子の一人歩きがね…」

ふと顔を上げると、闇にも綺麗に映える真貴さんの笑顔があった。
「…っ真貴、さん…」
どうしてここに、とか、どうやってここに、とか。
色々な言葉が、喉の辺りで詰まってる。
けれど涙で掠れた声は上手く出てこない。
驚きに固まる私の身体を、何と、その細い腕でよいしょ、とばかりに抱き上げる。
まるでなんでもないことみたいに出てきて、大したことじゃないみたいに抱き上げて。
疲れと驚きでされるがままになりながら、私は呆然と真貴さんの綺麗な顔を見上げた。
「さ…帰ろうね…」
穏やかに微笑みながら、真貴さんが鼻歌交じりに歩き出す、が。

咄嗟に私は、真貴さんの白いシャツをぎゅっと握り締めていた。
「…どうしたの?」
その手をちらりと見て、真貴さんが立ち止まる。
「真貴、さん…あの、…どうして、ここに?」
ぐずぐずと鼻を啜りながら、変な声で問いかける。
強張った表情の私とは対照的に、それでも真貴さんはのほほんと笑ったまま考え込む。
「んー…と、ほら、アフターシェーブ…?」
いや、多分それアフターケアだと思います。誰も無駄毛処理してませんし。
些かがっくりしながら、控えめに言ってみる。
だって…私にしては珍しく、シリアスな場面なのにさ…
アフターシェーブはないよね…アフターシェーブは…。
「…アフターケア…ですか?」
すると真貴さんはからからと笑い出し、また私を見て綺麗に綺麗に微笑む。
嗚呼。何だか嫉妬してて複雑だけど、綺麗な人はやっぱいい…。
「そうそう…アフターケア。それ」
それね。と歌うように言いながら、真貴さんはまた歩き出した。
「それで…アフターケアってどういうことですか…?」
「ああ、そうだった…うん。竜胆ちゃんねぇ、大丈夫だよ…」
また突然どういうことだろ。と首を傾げた私に、真貴さんはぽつぽつと、
言い聞かせるように。
「あのねぇ…私と百は、ただの仕事仲間なのさ…それにね…」
そこでふと口をつぐんで、ふふ、と意味深に笑う。
私は出会ったばかりの真貴さんが私の気持ちに気付いていることに驚き、
また仕事仲間ということは…つまり、矢張り同属だということにも、
予想はしていたものの、矢張りちょっと驚いた。
…何だか驚きっぱなしである。
そして、真貴さんの次に言った言葉で、もっと驚くことになる。

「私はね…どっちの性別でもあるんだよ…だから、女の子だし、男の子なんだよ」

だから竜胆ちゃんのこと、襲えたりもするわけさー。
なんてことを相変わらず暢気に仰る。
けど…
「それって…凄いことじゃないですか!凄い!格好いい!面白い!!」
すっかり先までの涙も忘れ、ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、真貴さんの首に腕を回す。
すっかり嫉妬など吹き飛んでしまった。
満足げに微笑んだ真貴さんは、私を抱えなおしながらゆっくりと歩く。
「…だからね、安心して…。私も竜胆ちゃんとは、仲良くしたいなぁって、思ってたしね…」
だけど、と、真貴さんがちょっと間を空けた。
「…薫のこと…どうなるだろうねぇ…」
そうだ。忘れたわけじゃなかったけど…。
あのときのことを、思い出す。




*********




泉君は必死な顔をして、私を見てた。
「佐野さん…どうして泣くの?俺じゃダメなの?そんなに…百がいいの?」
零れた涙を拭ってくれる手は優しくて、私はそれも悲しくなる。
どうしてだろう。
今まで誰かにこんなこと言われた経験なんてないから、嬉しいはずなのに。
嬉しいはずなのに…どうしてこんなに、辛いんだろう。
泉君に不足なんてないし、寧ろ私じゃ吊り合わないとさえ思える程の人なのに。
どうして。

どうして…こんな時まで、百のこと考えてるの?

喉の奥がからからに乾いて、目が熱くて、胸が痛くて…。
嗚咽を殺すために、深く俯いた。
「…解らないよ…」
それしか言葉が出てこなかった。

そして。嗚呼。

私はきっと確実に、百のことが好き。

何であいつなんだろう。
あいつは神様で。人間じゃなくて。でもいつも遊んでくれて。

解らない。
何故だろう。どうしたらいいんだろう?
この腕が百だったら良かったのに。
百。百。百。
今やっとわかったよ。

涙が溢れて止まらなくて、私は両手で顔を覆った。
頭上で泉君が、苦しそうに息を吐いたのが解った。そして


「佐野さん…百は、君のことなんて、どうとも思ってない」


冷たい声にはっとして顔をあげると、酷く傷付いたような顔をした泉君が、
何処か此処じゃない場所を見つめるように、私を見下ろす。

「百は、誰かを想うことはないよ…絶対にね。だってあいつ、神様だもんね?」

そう言って笑った泉君の顔が、酷く恐ろしかった。
けれども、やっぱり哀しそうで…。
泉君の言葉の一つ一つは突き放すみたいに鋭利なのに、その瞳は頑是無い子どものようで。
嗚呼。嗚呼。
耐えられなくて、私は胸を押さえた。
そして、逃げ出した…あの瞳から、自分の気持ちから。





**********





ぽつぽつと要領を得ない説明の後、少し首を傾げた真貴さんがまた微笑む。
笑顔を絶やさない真貴さんは非常に綺麗で、花のように可憐に見える。
けれども、その仕草や言葉の一つ一つが…永い時を感じさせるのは、何故だろう。
限りない寛容さと優しさに溢れた、素敵な人。
「…そっか…」
ぼんやり呟き、それきり何も言わない。
責めるでもなく、慰めるでもなく、静かな森を歩き続けるだけ。
その先までは恐ろしかったはずの静けさが、今は酷く穏やかに感じられて。
私は漸く涙の止まった瞳を閉じた。
真貴さんに甘えるみたいに、首に腕を回したまま。
聞こえるのは、風の音と草を踏みしめる音だけ。
緩い夏の風は木々の隙間を通って、含有するものを余すところなく教える。
不思議と心地よくて、私はくたりと真貴さんの胸に頬を寄せた。

そうしていつしか、眠りに落ちていた。



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